桜舞う四月―
入学式を迎えた俺は、入学式の直後に怪我をして、一人で保健室に行く羽目になった。
「失礼します」
簡単な教師の説明だけにしては、上手く辿りつくことが出来、そっとドアを開く。
中にいると思っていた保健の先生は留守らしく、シンとした保健室の中、俺は一人でどうしようとたたずんでしまった。
腕に視線を落とすと、どうやら血は止まったらしく、腕のまわりにはさっきまで流れていた血が固まっていた。
薬品棚を見ても、どれを使っていいのかも理解出来ないし、そもそも、勝手に使っていいものでもないので、血も止まったことだし、このまま教室に行こうかとも考えたが、手当てもせずに帰ったら何か言われそうなので、取り敢えず、保健医が帰ってくるまで待ってみることにした。
「ねみぃ…」
椅子に座って、ボケッと外を見つめていたが、段々と重くなってくる瞼に、そう言えば昨日は緊張して、あまりよく寝れなかったことを思い出す。
どうやらまだ、帰ってこなさそうなので、俺は帰ってくるまで寝させてもらおうと、保健室のベッドに向った。
「……」
二つあるベッドの一つ、そこには大きな体を小さなベッドに無理やり入り込ませて眠る人がいた。
その人はぐっすり眠ってるらしく、俺の存在にも気づかない。
置く場所がないせいか、分厚い黒縁の眼鏡をつけたまま眠る彼は、それが邪魔なのか、何度か寝返りを打つたびに、眉を寄せていた。
「邪魔なんかな…?」
寝にくそうな彼を見ていて哀れになってきたのか、俺は自分でも気づかないうちに、彼の眼鏡に手をかけていた。
そっと、起さないように気をつけながら、その眼鏡を取る。
「うっ……」
「誰…?」
眼鏡の奥に隠されていた瞳は、閉じてるものと思ってた俺の予想を裏切って、そこには綺麗な切れ長の瞳が開かれていて、
少し掠れたような声が、驚いて固まっていた俺の耳に届いた。
「…手塚?」
「ちがっ…、俺…」
誰か友達と間違えたのか、その人は知らない名前を呼んで、ふんわりと微笑んだ。
その笑みに俺の心臓はドキドキして、言葉が上手く口にのぼらずに、しどろもどろになっていた。
彼がゆっくりと起き上がる。
手をシーツに滑らせて、何かを探しているらしい様子に、俺は自分がこの人の眼鏡を持っている事実に気づいた。
「あの、コレ…」
そっと、彼の右手に眼鏡を手渡す。
「ありがとう」
感触でそれが眼鏡だと理解した彼は、柔らかい笑みを俺に向けた後、その眼鏡をかけた。
「君は、新入生かな?」
眼鏡をかけたことで、視界がはっきりしたのだろう。
彼は俺を見て、そう言った。
「そうっす…。あの、スンマセンでした」
「えっ?」
「寝てるとこ、邪魔したみたいで」
「ああ、別に構わないよ」
寝にくそうだったから眼鏡を取ったのだけど、そのせいで彼が起きたみたいだったので、一応、謝罪すると、彼は何でもないという風に優しく笑いかけてくれる。
「気、使ってくれたんでしょ?」
それどころか、彼には俺が何をしていたかわかっているみたいで、チョンチョンと眼鏡のフレームを突付きながら話しかけてくれた。
「…何か、寝にくそうに見えたんで…」
彼の優しい言葉に、俺も素直に答える。
「そっか、ありがとう」
そんな俺に、彼はもう一度、優しく笑いかけてくれた。
勿体ねぇな…
笑いかけてくれるこの人を見ながら、そんな言葉が浮かぶ。
さっき、眼鏡を外した時の微笑を見たせいか、今は眼鏡に覆われて隠れてしまった、あの切れ長の瞳が見れなくて残念に思う。
この優しい、今は自分に向けられてる笑みを、あの素顔の状態で見れたら…
「…それ、どうした?」
この人の笑顔に見惚れて、つい自分の中に入り込んでしまっていた俺の耳に、彼の声が耳に届く。
「えっ、これ?これは、さっき…」
「消毒しないとな」
彼の声で我に返った俺は、咄嗟にその傷の近くを握りしめる。
目の前の人は、俺の腕の傷を見て、少し眉を寄せた後、おもむろに立ち上がって、俺の腕を取って歩き出した。
「今日、先生休みだから、俺で我慢してくれな」
彼は俺を椅子に座らせ、薬品棚から消毒薬と包帯・ガーゼを取り出して、俺の向かいの椅子に座る。
「少し、しみるかもしれないけど、我慢な」
そっと怪我したほうの手を持ち上げて、彼は器用に手当てを始める。
消毒薬を付けられたときは、少ししみたけど、そんな痛いというほどのものではないので、我慢できた。
綺麗に血を水で濡らしたガーゼで拭きとって、傷口に消毒薬を塗って、上に優しくガーゼを被せる。
「上手いっすね…」
サラサラと上手に包帯を巻いていく姿に、俺は感嘆の溜息を漏らす。
「そうかな?ありがとう」
彼はゆったりとした笑みを浮かべて、お礼を口にした。
彼の長くて綺麗な指が、丁寧に包帯を巻いていく。
その仕草に見惚れていたら、
「はい、終わり」
と、声をかけられ、手が離される。
彼の手が離れ、支えを失った俺の腕が、ゆっくりと落ちていく様を眺めながら、俺はもう少し、この時が続けばいいのにと思っていた。
「…ありがとうございます」
そっとさっきまで彼が触っていた包帯の上に手を添えて、頭を下げる。
「お礼なんかいいよ。それよりも、怪我しないように気をつけろよ」
ポンと下げた頭に彼の大きな手がかぶさる。
クシャリと俺の頭を一撫でして、彼の手が離れていく。
その手が離れていくのを、俺は寂しいと思った。
「さて、目も覚めたことだし、そろそろ行くか」
軽く伸びをした後、彼は言葉とともに立ち上がる。
「君も、もう行かないとマズイだろ」
「っす」
立ち上がった彼が、俺に向き直り手を差し伸べてくれる。
俺は軽く頷いた後、遠慮がちにその手に自分の手を重ねる。
彼の腕が力を入れて、ひっぱりあげてくれる。
「じゃあな」
彼の手が離れて、彼がドアに向って歩き出す。
「あの…」
このまま名前も知らずに終わってしまうのは、何だか嫌で思わず呼び止めた。
「ん?」
俺の声に、俺のほうを振り向いた彼に、俺は何を言おうかと思い悩む。
「乾〜!」
「げっ」
少しの時間、沈黙だけがこの場を支配していた。
何か、何でもいいから言わないと、と、俺が口を開こうとした瞬間、廊下の向こうから聞こえた声に、彼の表情が変わるのを見て、俺は何も言うことが出来なかった。
「まずいな…」
彼が口元を手で覆いながら呟く。
「ここで、俺にあったってことは内緒な」
ドアに向おうとしていた彼の体が、俺のほうに近づいてくる。
俺の目の前に立った彼は、屈んで、俺と同じ目線で話す。
彼の言葉に、俺が軽く頷くと、
「じゃ、約束な」
そう言って彼は、俺の唇に触れるだけのキスを落として、保健室の窓枠に片手をついて、外へ出ていった。
彼が飛び出していった窓枠に自然と足が向う。
彼が手をついたところに、片手をついて、俺は窓の外の、もうどこかに行ってしまった彼の残像を追って、窓の外を眺める。
「乾…先輩…」
そっとまだ彼の感触の残る唇を指でなぞって、彼の残した、たった一つの手がかりである名前を呟くと、心が切なく揺らいだ。
もう一度、逢いたい…
あれで、終わりにしたくはない
その想いが通じたのか、俺と彼はもう一度、再会した。
それは…
桜舞散るテニスコートの中
「やあ」
あの日と変わらない笑みを浮かべ、前と違いレギュラージャージを着て、俺の前に立った彼。
「よろしくな、海堂」
「乾、先輩…」
あの日と同じ声で名前を呼ばれ、俺の心は激しく騒ぎ始めた。
それが、淡く色づき始めた想いが、はっきりとした形を作り始めた瞬間だった。
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