カゼカオル  五月 薫風 生誕



「お兄さん、今日は早く帰ってきてくださいね」
「薫、今日くらいは早く帰ってきてね」
「私も早く帰ってくるから、お前も早く帰ってくるんだぞ」
「…あ、ああ、わかった」

朝、学校に行く前に家族全員から早く帰ってくるように言われる。
その理由に思い当たらないながらも俺は、相槌を打っておいた。
何なんだろうか?
何も思いつかない自分の頭にイライラしながら部活に行く。
まだ入部して一ヶ月しか経ってない俺たちがするのはランニングと素振りと球拾いくらい。
それでも、それも上手くなるためには必要なことだと、すぐにつっかかってくる桃城と言い合いながら、いつものように練習をしていると、

「乾〜、俺と勝負」
「わかったから、離れろ菊丸」

という声が聞こえてきた。
視線をそちらに移すとそこには、乾先輩の背中に飛び乗って、ぶら下がっている菊丸先輩と、ぶら下げたまま、コートに向う乾先輩がいた。
ツキン
その二人の姿に、俺の胸が小さく痛み出す。
初めて逢ったときから、ざわめき、揺れ動く心の正体に気づいたのは、つい最近のこと。
俺は、乾先輩が好き、なのだと…
それも部の先輩・後輩としてではなく、恋愛感情として。
それがいけない想いだってことは理解しているけど、溢れだした想いは留まることなく、後から後から溢れてくる。
あの日、唇に触れた感触が今でも残っていて、抱いてはいけないこの想いが、消えることを拒んでいた。
目の前で、試合をする乾先輩。
レギュラーだけが着ることを許されたレギュラージャージは彼によく似合っていて、いつか、あの人の隣に並べる日をいつも夢見ている。

「海堂」

部長の休憩と言う声がコートに響く。
それぞれ思い思いの場所で休憩を取っていると、乾先輩がやってきた。

「海堂ってさ、五月生まれ?」

隣に座った乾先輩の唐突な一言に、俺は面食らう。

「え…、まあ、そうっすけど」

手が、少しでも動いたら触れそうな距離にいる先輩の存在に、心がざわめく。

「でも、どうしてっすか?」

何故、彼はいきなりそんなことを言い出したのだろう?

「うん。海堂の名前がさ、何となく五月かなって思って」
「は?」
「風薫る五月とか、薫風って言うでしょ?」

だから、五月に生まれたから薫ってつけたのかな?

「とね、ふと思ったんだよ」
「凄いっすね」

人の名前で、そこまで思いつくなんて。
純粋にそう思った俺は、そのままを口にする。

「そうでもないよ」

俺の言葉に、先輩は苦笑を漏らす。

「…似合うよね、海堂には」
「え?」

不意に先輩の視線が和らぐ。
俺の顔を覗き込んで話す先輩に、俺の心臓が早鐘を打つ。

「薫って、凄く海堂に似合うと思う」

そう柔らかく微笑まれて、俺の心が一瞬止まる。

「そ、そうっすか?」

ドキドキして、上手く言葉が出ない。
どもりながら、何とかそれだけを呟いた。

「似合うよ」

はっきり言い切る先輩に、俺の心が暖かくなる。
女みたいな名前でそれほど好きじゃなかったこの名前も、乾先輩にそう言ってもらえたら、とても好きになれる。

「薫…」

乾先輩に名前を呼ばれる。
その声に、体がピクンと反応する。
朱に染まった頬を隠すように俯き加減に様子を窺えば、楽しそうに細められた双眸が見えた気がした。

「…遊ばないでください」
「遊んでないよ」

クスクスと笑いながら口を開く先輩。
遊んでるじゃねぇか。
そう思うけど、それを口にすることは出来なくて、

「名前…呼ばないでくださいよ」

小さな声で、懇願してみる。

「どうして?」
「どうしてって…」

あなたに薫と呼ばれると…
俺の心も体も、あなたに鷲?みにされるようで、息が出来なくなる。
心がとても痛くなる。
捕まって逃げられなくて、それでもいいやと思う。

「海堂の名前、好きなのに…」

俯いたまま、何も言うことが出来ずに黙っていると、頭上から残念そうな声が降りかかる。
そんな声にも、反応してしまう自分。
名前が好きって言っただけなのに、きっとこの人にとって深い意味はない言葉なのに、好きと言ってくれた言葉に、心が勝手な期待を持ってしまう。
ちょくちょく構ってくれるのも、こうして傍にいてくれるのも、俺だからなのかなって。
そんなことあるはずないのに…

「五月のいつ?」

一ヶ月の間にみつけた先輩の癖。
それは、脈絡もない話を主語も述語も飛ばして話すこと。
今も、ほら…

「いつって?」

名前から、どうしてそこにいきなり戻るんだろうか?

「誕生日」
「…十一っす」
「…十一?」

ボソッと答えた俺に、先輩が聞き返す。
何だよ、何か可笑しいのか?
俺、流石に自分の生まれた日を間違えたりはしねぇぞ。

「何すか?」

困ったような顔で俺を見る先輩に問う。

「…今日?」

彼にしては珍しく、ちょっと呆然としたような口調に

「え?」

俺も、思わず呆然としてしまった。
今日?
今日って…

「ああ!」

思わず叫んだ俺に、乾先輩が驚いたように見つめてくる。

「スンマセン」

流石に恥ずかしくて、俺はまた俯く。
どうりで、家族が早く帰って来いというわけだ。
朝の家族とのやりとりがやっとで腑に落ちる。

「海堂」

さっき、名前で呼ぶなっていったからか、先輩がいつものように苗字で呼ぶ。
こっちで呼ばれたら呼ばれたで、物足りないと思ってしまうのだから、人の心というのは現金なものだって思う。

「はい?」

振り返った先に、先輩の優しい笑顔。
心がトクンと鳴る。
先輩の手が俺の頭に伸びて、バンダナを外した髪の上を、先輩の指が滑る。

「誕生日、おめでとう」

髪をクシャリと撫でられて、告げられた言葉に、嬉しくて俺は照れたように笑った。

「…ありがとうございます」

離れていく手を寂しく思いながら、その手を見つめる。

「困ったな…」

呟く彼の声に、先輩を見つめる。

「今日だとは思ってなかったから、プレゼント用意してないんだよな」

しくったな…
そう呟く先輩。

「そんな、プレゼントなんていいっすよ」

そう思ってくれただけで、俺はとても幸せになれる。
俺のことを少しでも気にしてくれるなら。
それだけでいいから…

「仕方がない、これで我慢してな」
「え?」

先輩の声に驚いて顔を上げると、すぐ目の前に先輩の顔があった。

「わっ」

驚いて、咄嗟に目を瞑ったら、先輩が笑ったらしく、微かに空気が揺れた。
さっと、あの日のように触れる感触。
掠めるだけのキスを施して、すぐにはなれた唇。

「休憩、終わりだ」

さっさと先輩が立ち上がる。

「行くぞ、海堂」

先輩の手が俺に向って伸びる。

「…はい」

戸惑いながら、その手に自分の手を重ねたら、軽い力で立たされる。
前を歩く先輩の背中に、見惚れる。
部員たちが集合していくのを傍目に見ながら、俺はそこから動くことも出来ずに、そっと唇に手を触れた。


二度目のキスは、今まで貰ったプレゼントの中で、一番、幸せなプレゼントだった。

Fin