Little Lover  -Before8-



朝、目が覚めたら何もかもが大きかった…
本日の部活は顧問が用事で休みのために、休止。
だが、大会前ということもあり、レギュラーのみ練習が入っている。
だからこそ、今この家には乾一人しかいないわけで…
それを幸ととるか、不幸ととるかは、乾自身も決めかねているところだ。

「さて…、どうするかな…」

目が覚めた時に感じた違和感の正体に気づいて、確認しに向ったのが洗面所。
そこで鏡を見るまでもなく、目線の変わったドアや廊下にそれが事実だと教えられてはいたけど、実際に見てみると、やっぱりショックだった。

「…小学校に入学したてくらいの頃か…」

しばらく、鏡の前で変わってしまった自分の姿を見ていたのだが、このままでいても仕方がないので、乾は自室に戻り、本棚からアルバムを出して捲っていく。
丁度、小学校の入学式の日に撮られた写真。
そこに映る自分の姿は、紛れもなく今、ここにいる自分と同じ。
そう、乾は朝起きたら、何故だか幼くなっていたのだった。
だが、順応性が早いのか、乾も始めは戸惑っていたのだが、今ではすっかり平静を取り戻し、今の自分の体がいつ頃のかなどと、冷静に分析している。

「あ〜、クラブどうっすかな〜」

ふと目に入った時計を見て、乾が呟く。
どうするもなにもないのだが…、こんな体では出ても無駄だし、周りに知られるのも嫌だ。大体、不二や菊丸の玩具にされるのは目に見えている。

「手塚に何て言うかな〜」

素直に、小さくなったから休むとは言えないし。
ってか、言いたくない。

「そういや、声も変わってるか…」

体が幼少の頃に戻ったために、声も変声期前のまだ高い声に戻っていた。
電話もだめ、だからといってサボルわけにもいかない。
珍しく乾は、現状について頭を悩ませていた。

「とりあえず、メールで連絡するか」

電話が声でバレるので、メールにすることにした乾だが、ここで一つ問題が浮上した。

「誰にいれるんだ…」

青学レギュラーの中で携帯を所持しているのは、不二と乾と海堂。
自分に連絡しても仕方ないので、残るのは不二と海堂。

「……」

少し考えて、乾が送ったのは海堂のほうだった。
不二にメールを入れれば、何か感づかれるかもしれないが、海堂なら問題ない。
それに、まだバレるにしても、不二よりは海堂のほうがいい。
不二ならば、メールを見た時点で、何かに気づいて朝から家までやって来そうだが、海堂は真面目なので、来るとしても部活が終わってからだろう。
もしかしたら、それまでの間に治るかもしれないと思い、乾はメールを送り終えた後、折角なのでもう一眠りとベッドに潜っていった。
だが、乾はもう少し自惚れるべきだったのかもしてない。
海堂と乾は所謂、恋人同士という間柄。
それも、お互いに最初で最後の人だと思っているくらいに、相手を想っている。
そんなわけだから、乾から今日の部活を休むとのメールを受け取ってしまった海堂からしてみれば、何かあったのではないかと心配になってしまうのだ。
乾は弱いところを人に見せるのが嫌なのか、少々の病気では無理を通してでも部活に出る。
そして、幼馴染である不二や手塚、海堂にバレるまで何でもないふりを通すのであった。
そういうところもキチンと把握しているから、海堂は気が気でなくて、家を早めに出て乾の家に向った。
乾の家のあるマンションまで、凄い勢いで走っていき、タイミングよく開いたエレベーターに駆け込む。
最上階にある乾の家の呼び鈴を押しても、返答もないので、もしかして倒れているんじゃないかと心配になった海堂は、以前、我がままをいって貰った合鍵を使って、家の中に入っていった。

「…乾、先輩…?」

乾の部屋、ベッドの前で茫然と海堂が呟く。
海堂の目の前には布団があり、小さな山が一つ。どう見ても、乾…いや、越前よりも小さな山に海堂の頭が混乱する。

「ん…?」

高い声が山の中から聞こえる。モゾモゾと動き出した山から小さな身体が出てくる。

「海堂」

乾のベッドから出てきた少年が海堂を見つけて鮮やかに笑う。

「…っ」

海堂を呼ぶ声の高さは違えども、呼びかたや笑顔は乾そのもので、海堂は停止している頭の中で、やっぱりこの子は乾先輩なんだな〜と納得してしまう。

「どうした?…ああっ!」

茫然と自分を見つめる海堂に乾は不思議そうに見つめるが、見上げる視線に自分の身に何が起こったのか思い出した乾は、大きな声を出して布団を被って海堂から姿を隠す。

「先輩!やっぱ乾先輩なんすね」
「わあ〜!やめっ!剥がすな!」
「じゃあ、隠れてないで出てきて下さい」
「やだ」
「何でっすか?」
「恥ずかしいからに決まってんだろ」
「どこが恥ずかしいんすか。こんなに可愛いのに!」
「え?」

布団の引き剥がしの攻防戦を繰り広げながら、大声が飛び交う。
結局、今の体格差じゃ乾が負けるのは目に見えているわけで、布団は引き剥がされ乾の体は海堂の腕の中に収まってしまった。
海堂の言葉と行動に驚いて固まってしまっている乾を抱き締めて、海堂は

「先輩、可愛過ぎっす。反則っすよこんなの」

と言いながら、乾の今はツンツンでない頭を頬擦りしている。

「そっか?俺も海堂が子供好きだとは思わなかったよ」

動物や小さいものが好きなのは知っていたが、それが人間にも当てはまるとは思わなかった。
海堂の言葉に呆気にとられながら、乾が溜め息混じりに呟く。

「海堂、部活は?」

そういえばと、思い出したように呟く乾。
いまだに乾は海堂の腕の中だ。

「先輩からメール貰って気になって…」

だから忘れていました。
と、呟く。
だが思い出したからと言って、乾を離す気配も、部活に行こうという気配もない海堂に

「こういうことだから俺はいけないから。俺は大丈夫だから、部活に行ってこい」

と、安心させるように笑ってみせる。

「大丈夫じゃないっす」

が、即座に海堂からの反撃にあう。

「小さな体じゃ、ご飯だって自分で作れないでしょうが」

一番の現実問題を指摘されて、

「そうだけど…」

歯切れ悪く返事する。

「それに、離れたくないっす」

こんな可愛いのに…

「海堂…」

海堂の声に出してない部分まで正確に把握出きた乾が、呆れたような声をだす。

「だからって、さぼるわけにはいかないだろう。大会も近づいてるんだからさ」
「でも、先輩もいないと練習出来ないっすよ」

乾の言葉に軽く反論する。
今、乾と海堂はダブルスを組んでいるために、海堂が試合形式の練習をするには乾の存在が必要不可欠だった。そのことは乾も理解しているから、返事につまる。

「でもな、見るだけでも練習になるし、ダブルスの練習は出来なくても、トレーニングは出来るだろう」

何とか、適当な言葉を見つけ出してきて、乾は海堂を行かせようとする。
どうあっても、乾は海堂に行って欲しいのだ。
乾のみ休みなら、体調悪いという理由も納得するだろうし、バレた今なら海堂が戻ってきてくれるだろうから、他の奴までやってこないだろう。
そうなれば、このことを他の奴らには知られずに済む。
だが、このまま海堂も一緒に休めば、周りの奴らは絶対に勘ぐる。
そして、絶対にやってくるのだ。
休んだ理由を聞きに。
そんなことになれば、バレてしまう。
それだけは、どうしても避けたかった。

「わかった…」

珍しく考え込んでいた海堂がボソッと呟く。

「そっか、わかってくれたか」

その言葉が、自分の言った言葉に対してだと思った乾は、笑いながら話しかける。

「…先輩も一緒に行けば、いいんっすよね」
「わかってないじゃないか」

が、乾の気持ちなどお構いなしに、一番、したくないことを言い出す海堂に、つい乾は叫んでしまう。

「何でっすか?」

海堂からしてみれば、今を逃せば二度と見られない、可愛い乾と一緒にいれて、尚且つ、部活にも出られる一番画期的な方法だったのだが、乾に反対されて、不思議そうに乾を見ている。

「あの人たちなら、先輩の姿見たって、そんなに驚かないっすよ」

すぐに順応しますって。

「だから、嫌なんだ」

海堂の言葉に、乾は即座に反論する。

「順応するどころか、すぐに玩具にされるのが目に見えてるだろ」
「大丈夫っすよ」

乾の言葉に、海堂が自信あり気に言い切る。

「何が?」

思いっきり不審そうな目で見る乾に、海堂は意にも介さずに

「俺が守りますから」
「絶対、無理!」

速攻で言い切る乾に、海堂の頬がプウっと膨れる。

「お前が、手塚や不二、菊丸に勝てるわけないだろう」

呆れたように言い切る乾に、海堂はとうとう強行手段に訴えた。

「ともかく、連れて行きますから」
「げっ、海堂、止めろ!」
「嫌です」

ガシッと乾の体を抱きかかえて、テニスバックを肩に担ぎ、乾の家を出る。
鍵も、合鍵があるので、困ることなく、戸締りもキチンとして、ジタバタと暴れる乾を押さえ込んでエレベーターに乗り込む。

「離せ!」
「もう、ここまで来たんっすから、諦めましょうよ」
「無理やり、連れて来たんだろうが。大体、俺は服だって、Tシャツしか着てないんだぞ」
「それは、きっと不二先輩あたりが買いに行ってくれますよ」

そう、乾は小さくなったせいで、寝る前に来ていたTシャツしか着ていなかった。
というよりは、自分の服が全部大きすぎて、着られないのである。
下着もである。
そのため、今の乾はブカブカのTシャツを着ているだけであった。

「着きましたよ」

延々と、ここまでの道すがら問答を続けながらも、乾は部室まで連れてこられていた。
今更、逃げることが出来ないと悟った乾は、それでもやっぱりこの姿を見られるのが嫌なので、ギュウッと海堂にしがみついて、海堂の肩口に顔を埋めて隠す。
それが、今の乾に出来る精一杯の抵抗だった。

「はよっす」
「おはよう、かいど…う?」
「今日は遅かった…」

入ってきた海堂に、黄金ペアが振り向き固まる。

「か、かおちゃんが、子供連れてきてる〜」

バタバタバタバタバタ…
正気に戻った菊丸が、コートにまで響く声で絶叫する。
その声に、驚いたコートにいるレギュラー陣が走って部室に入ってくる。

「英二、どうしたの?」
「英二先輩、煩いっすよ」
「何があったんすか?」
「…英二、どうかした…え?海堂?」
「騒がしい…」

勢いよく部室に飛び込んできた五人は、海堂を見て固まる。

「海堂、その子はどうしたんだ?」
「かおちゃんの子?」
「英二、それはないだろう」
「え〜、でもさ、かおちゃんと乾付き合ってるし」
「そういう問題じゃないだろ」

菊丸の声に正気に戻っていた大石が海堂に尋ねると、菊丸も見当違いな問いかけをしてくる。
それに、大石が苦笑でもって答えている内に、当初の問いはどこかに消えていってしまった。

「大石も英二も、問題が入れ替わってるよ」

黄金ペアによる、夫婦漫才の間に正気に戻った不二が、ニコヤカに突っ込みをいれる。

「で、誰なんすかそれ?」

次に正気に戻った越前が、海堂に向って訊ねてくる。

「ああ、この子は…」

海堂が顔を見せようと引き剥がそうとするが、乾は絶対に見られたくないために、強い力でしがみつく。

「ちょっと、先輩。離してくださいよ」
「絶対に嫌だ」
「ここまできて、まだ嫌がるんっすか?」
「お前が勝手に連れて来たんだろうが」

海堂も力を入れて引っ張るが、乾にも意地があって、中々、離れようとはしない。

「海堂、先輩って…」

抱き上げている子供に向って、先輩と呼ぶ海堂に、大石が怖々と言った感じで訊ねる。

「乾先輩に決まってるじゃないっすか」

そんな大石に一瞥をくれただけで、海堂はまた乾との攻防戦に戻っていく。
が、その一言に、残りのメンバーは新たにフリーズ。
乾(先輩)?乾(先輩)だって?
確かに、海堂が先輩と言って思いつくのは乾だけ。
だが、このどう考えても、小学校に入ったかどうかの年頃の子供が乾?
いくら何でもそれは…
と、思う。

「う〜ん。でも、言われてみれば、小学校の頃の乾ってこんな声だったような…。話し方は、今の乾にそっくりだし」

思うが、幼馴染の一人の不二が、頭を捻りながらそんなことを言い出すものだから、もしかしてと思ってしまう。

「顔を見ればわかることだ」

もう一人の幼馴染の手塚も、声に聞き覚えがあるのか、そう呟いて攻防戦に参戦する。

「わわっ、止めろ手塚」

参戦した手塚に思いっきり引っ張られて、乾は手塚の腕の中。

「これは、間違いなく乾だね」
「そうだな」

とうとう、皆の前で顔を曝すことになってしまい、覗き込まれた不二と手塚の言葉に、俯いてしまう。

「おい、不二・手塚」

が、すぐに顔をあげて、不二と手塚を呼ぶ。

「抱きつくな、鬱陶しい」

前と後ろから、二人に抱きつかれて、乾が嫌そうな声を出す。

「やだ。乾、可愛い」
「嬉しいぞ俺は。この頃の乾にまた逢えるなんて…」

だが、そんな乾にお構いなく、二人は張り付いて離れない。

「本当にゃ。乾、可愛い」

青学ナンバー1と2が認めた以上、他のレギュラーたちもすんなりと受け入れ、順応し始める。
菊丸も、可愛いのが大好きな性格なので、乾の可愛らしさに、抱っこしたいな〜と羨ましそうに見つめる。

「部長、不二先輩。次、代わってくださいよ」

越前も、結構好きらしく、後ろで順番待ちをしていた。

「乾って…」
「変われば、変わるんだな」
「乾先輩の子供の頃って、女の子みたいだったんすね」

そして、残りの三人は乾の変貌ぶりに立ち尽くしていた。

「何言ってんのさ。乾は元々、格好いいでしょ?」

三人の言葉を聞きつけた不二が、乾を離して三人に向き直る。
入れ替わりに、乾を捕まえようとした菊丸を、乾がかわして、海堂の足元に走っていく。
不二が離れた際に、手塚も腕を引き離され、仕方なさそうに立ち上がる。
越前と菊丸は、何としても、自分も乾と遊ぼうと海堂の足に張り付いている乾に近づくが、乾が海堂に抱き上げられ、それも出来なくなっていた。
そして、その横では…

「あのね、大きくなって格好良くなる男ってね、大体が、子供の頃は可愛かったりするんだよ」
「へぇ」
「顔の作りは変わらないんだから。変わったのは、大きくなって男らしくなっただけ」
「そう言われれば…」

海堂の腕の中にいる乾は、確かに面影を残している。

「そうか、乾って可愛かったんだな〜」

不二の言葉に納得してしまった三人が、ウンウンと頷いた。

「可愛い、言うな〜」

それが聞こえた乾が、海堂の腕の中から、叫ぶ。

「でも、実際に可愛いにゃ」
「そうっすよ」

と、切り返されていた。

「ところで、乾の格好なんだけどね」
「それ、誰かに買ってきてもらおうと思ってたんすけど…」

乾の服装に気付いた不二に、海堂が思い出したように口を開く。

「じゃ、僕が買ってきてあげるよ」

嬉しそうに財布を取り出す不二に

「俺も行こう」

と、手塚が便乗するが、

「ダメだ、買いに行くなら、大石と河村がいい」

と、乾の反対にあう。

「そんなこと言っても、今の乾じゃ僕たちを止めることも出来ないでしょ」

が、不二がそれくらいで退くわけもなく。

「ってことで、手塚行くよ」
「ああ」

と、乾の反対を押し切って、不二は手塚と連れ立って出て行った。


「嫌だ!」

数十分後、下着から服・パジャマに至るまでを買い揃えてきた不二と手塚。
乾の前に出された服に、乾は体一杯に拒絶する。

「何で?きっと、似合うよ」
「そうだぞ、それに可愛いじゃないか」
「凄いにゃ、これ。帽子もついてるよ」
「先輩たちも、いい趣味してますね」

そんな乾を尻目に、騒ぐ四人。

「海堂…」
「…似合いますよ、先輩」

助けを求めて後ろを見たら、しっかりと捕まえられる。

「裏切り者」

後ろから海堂に押さえられて、無理やり、不二と手塚に着替えさせられる。
着替えが終わった頃には、乾の機嫌は最悪になり、むっつりと頬を膨らましていた。

「うわ…」
「ううっ…」
「可愛い」
「似合うよ」

右から、越前・手塚・菊丸・不二。
彼らが見つめる視線の先、そこには膨れっ面の薄い水色のセーラーの上下を着せられた幼い乾。

「嬉しくない」

プンっと怒った仕草も、また可愛くて、四人はうっとりと見つめている。

「もういいだろ。早く、練習しろよ」

いい加減、怒るのもバカらしくなってきていた乾が、溜息混じりに呟く。

「ええっ」
「そんな。勿体無い」
「今日はもう、部活は中止で、乾と遊ぼうよ」
「バカなこと、言うな。大会前だろ」

不二たちの言葉に、思わず頷きそうになっていた手塚に気づいた乾が、先に手を打っておく。

「練習を始めるぞ」

こう言われれば、手塚はこう言わざるを得ないことを知っていたからだ。
えーっとか、嘘とか言いながら、ぞろぞろと部室を出て行くレギュラー陣。
コートに入っていった連中を見て、ホッと一息吐く。

「だから、嫌だったんだ」

不二と手塚が買い物に行ってから、ずっと部室のベンチに座っている海堂の膝の上に座っていた乾は、降りながら、海堂を見る。

「でも、気は楽になりましたよね?」

自分も立ち上がって、スイッと乾を抱き上げる。

「まあ…。サンキュ」

されるがまま抱き上げられて、乾が笑う。

「似合いますよ、それ」

小さな額に唇を寄せて呟く。

「嬉しくないよ、それ」

擽ったそうに肩を竦めて、乾が答える。

「何だか、いつもと逆で変な気分だ」

海堂に抱き上げられたまま、コートまで連れていかれながら、乾が呟く。

「たまには、いいんじゃないっすか?」
「そうだな、たまにならな」

クスクスと二人で笑いながら、コートに向った。


今日の部活は、乾がテニスが出来ないために、徹底的に乾がコーチをしたおかげで、全員がコートに押し込まれ、誰も乾で遊ぶことは出来なかった。
乾は姿が幼くなっただけで、中味は変わらないままだから、コーチをしてる分には支障がない。
昼の休憩に入るまで、練習はきっちりと行われた。
そして、昼休み。

「あ〜、俺の飯どうすっかな…」

無理やり海堂に連れてこられた乾は、当たり前だが、弁当を持っていなかった。
買いにいくにも、財布も持ってきてないために、お金がない。

「俺の、たくさん作ってますから、食べてください」

途方に暮れる乾に海堂が話しかける。
海堂の母の作る豪華弁当は、大きな漆塗りのお重に入っているので、量もある。

「そっか、それじゃ遠慮なく」

海堂家の弁当は味も抜群なので、乾は嬉しそうに海堂についていった。
海堂と乾は、木陰に腰を降ろす。
と、気がつけば、いつもは思い思いの場所で食べるレギュラー陣が勢ぞろいしていた。
要するに、乾と一緒にいたいのである。
子供好きなのが、揃っているらしい。
まあ、数名はヨコシマな想いによるものだが…

「先輩、はい」

いつもと変わらない、海堂の重箱弁当。
中に入っているから揚げを箸で掴んで、乾の口元に運ぶ。

「ん」

お箸がないために、素直にそれを甘んじる乾に、数人の目が釘付けになっている。

「いつ食っても、穂摘さんの料理は美味いな〜」

モグモグと美味しそうに食べる乾に、違和感に気付いたのは越前。

「乾先輩、眼鏡どうしたんすか?」

越前が持っていた違和感。それは、乾が眼鏡をかけてないため、普段は出ない表情が出ていたことだ。

「眼鏡な〜、大きいんだよな…」

越前の言葉に、乾が苦笑する。
服が小さくなってないのだから、勿論、眼鏡も元のサイズ。
掛けようにも、今の自分が掛ければずり落ちてくる。
まだ、この年の頃は、眼鏡をかける必要もないくらいの視力なので、眼鏡は放棄してきた。

「ま、まだ視力悪くなる前だから、問題はないよ」
「ふ〜ん」

笑って話す乾に、越前の頬が微かに赤くなる。
かなり、可愛かったらしい。

「乾、これ好きだよね」

海堂にご飯を食べさせてもらっている乾を見て、不二が自分の弁当の中の物を、乾の前に差し出す。

「何、くれんの?」

不二の言った通りに、好きなものだったらしく、乾が嬉しそうに近づく。

「うん。はい」

ニコニコと笑って、箸を乾の口元に寄せれば、パクっと素直に食べる乾。

(俺もやってみたい)

海堂の手からじゃなくても、食べることに気付いたレギュラーたちが、次々と乾に自分のおかずを差し出していった。
そうして、乾は弁当を持ってきていないにも関わらず、一番、よく食べた。
というか、食べさせられた。
昼が終われば、また練習は行われる。
乾に近づきたくても、メニューをきっちりと組まれてあるせいで近づけないため、全員がチラチラと様子を伺っていると乾の様子がおかしいことに気付く。
フラフラと右に左にと揺れる身体に、眠そうに目を擦る仕草。

「昨日、何時に寝ました?」

どう見ても、寝るのを我慢しているとしか思えない状態に、練習を中断してきた海堂が声をかける。

「ん〜、3時…かな〜?」

しゃがみこんで、目線を合わせてくる海堂の腕にすがりつき、ウトウトし始める。

「寝ますか?」

いつもなら起きてられるのだが、小さいせいか、我慢が利かないらしい。

「うん。ごめんな」

包みこむように抱き締めてくる腕に身を預け、乾は深い眠りに落ちる。

「乾、寝ちゃったの?」

乾の身体を抱き上げ、あやすように背中を叩く海堂に不ニが小さく声をかける。

「あ…、そうっす」
「羨ましいな〜」

笑顔を絶やすことなく呟く不ニ。
けれど、どことなく寂しそうなのは思い違いではないだろう。

「……」

海堂は何も言うことが出来ずに、俯いて、ぐっすりと寝入っている乾に視線を落とす。

「あの乾が、こんなに安心して体を預ける日がくるなんて、思わなかったよ」
「不二先輩…」
「僕も手塚も、物心ついた頃から一緒にいたけど、乾の癒しになることは出来なかった」
「もっと、甘えてくれたらよかったんだがな」
「部長…」

いつの間にか、手塚が海堂の腕の中で眠る乾の髪を梳きながら、話しに入ってくる。

「俺たちの前ですら、乾はこんな風に安心しきった表情を見せたことはなかった」
「ちょっと、妬けちゃうよねぇ」
「そうだな」

不二は乾の頬を擽るように撫でながら、手塚は髪を指先で弄びながら、優しい眼差しで乾の寝顔を見つめる。

「乾のこと、よろしくね」
「任せたぞ、海堂」
「はい」

自分を想ってくれる、大切な親友たちと恋人の声を子守唄に、乾は穏やかに眠っていた。


「…んん…」

ぽっかりと覚醒する意識。

「起きました?」

上から降る、優しい声。

「…ココ…?」

起き抜けの意識には、まだ物事を判断する能力がなく、移り行く景色を不思議そうに眺める。

「帰る途中っす」
「えっ?……あ…ああっ……」

海堂の言葉に乾は、キョロキョロと周りを見て、海堂を見る。
海堂は黒のタンクトップにハーフパンツと練習中の格好のまま、肩にバッグを担いで、乾を抱き上げて歩いていた。

「ごめん、海堂」

練習が終わっても乾が寝ていたために、着替えることも出来ずにいたのだと、海堂の服装を見て気付き、謝る。

「何で、謝るんっすか?」

だが、当の海堂には謝られる理由が思いつかないらしく、不思議そうに乾を見る。

「俺のせいで、着替えられなかったんだろ?」

起してくれてよかったんだぞ?

「ああ、別に先輩のせいじゃないっすよ」

乾の気にしていることがわかって、海堂が笑う。

「着替えだって、その間だけ、他の人に先輩渡せば出来ることですし」
実際、練習後の部室はそれで揉めたわけだし。
「単に、俺が先輩を他の人に渡したくなかっただけっす」
着替える間、代わりに乾を抱いてくれる手は幾つもあった。
けれど、海堂は誰かにその少しの間でも、乾を渡すのが嫌だった。
「これだけは、俺の特権っすから」
腕の中で寝るのも、抱き上げるのも。
「だから、先輩が気にすることじゃないっすよ」
「そうか。じゃあ、もう少し甘えさせてもらおうかな」
海堂の言葉に、乾が嬉しそうに笑う。
「どうぞ。こんな時くらい甘えてください」
その姿に海堂も、同じように笑った。


途中、乾の家のスーパーで買い物をして、乾の家に帰る。
乾がこの姿なので、夕食は海堂が作った。
お風呂も、一緒に入って、海堂が乾の頭を洗ってやる。
本当にいつもとは逆の立場に、二人ともこそばゆいような、それでも相手の気持ちがわかって、嬉しそうだった。
風呂から上がって、冷たい飲み物を持って、乾の部屋に向う。
いつも欠かさずにしているデータ整理も、小さな体では出来ないのでお休み。
ベッドに座る海堂の膝に座って、乾は何となくつけたテレビを見つめていた。

「……思い出した」

見たいものがあるわけでもなくつけられたテレビは、適当にコロコロとチャンネルを変えられていく。
リモコンを持って、適当に動かしていた乾が、不意に呟く。

「何がっすか?」

少し焦点が合わなくなったような目でテレビを見つめ、呟く乾に、海堂は乾の顔を覗き込みながら訊ねる。

「昨日もさ……、こんな風にテレビつけてたんだよな……」

昨日の夜、データ整理もひと段落ついて、乾は長い足を無造作にベッドに投げ出しながら、適当にリモコンを触っていた。
特に見たいものがあるわけでもなく、コロコロと変わっいく画面を、何も考えずに眺めていた。

「目に入ったんだよな」

流れるように変化する映像。
その中で、不意に意識ごと引き摺られた場面があった。

「たわいもない、母親と子供の戯れてる映像だったんだよ」

たぶん、その親子の住む家の中。
母も子も、満面の笑みを浮かべていた。
無邪気にじゃれつく子供と、抱きしめる母親。
何気ない日常の風景でしかない、映像。

「なのに、何でかな?目が離せなかったんだ」

リモコンが手から滑り落ちて、目が釘付けになる。
それは、その親子が画面から消えるまで気がつかなくて、気付いたら、落としたリモコンがどこにあるか探すのが大変だった。
乾の部屋は、色んなものが散乱しているから。

「リモコン見つけたら、寝れなくなってさ」

そう言って笑う乾の体を、海堂が強く抱きしめる。
「甘えたかったのかな?あの子みたいに……」
前に、まわった海堂の腕に、自分の手を重ねながら、乾が遠くを見るように呟く。
乾の家族関係は複雑で、普通の家庭とは少し違うことも知っていた。
乾が見たというテレビ。
そこに映っていたのは、間違いなく、普通の家に生まれ育ったなら、誰でも経験していること。
現に自分だって、母にじゃれついて抱きしめてもらったことは何度もあるし、それが当たり前だと思っていた。
けれど、それが当たり前でない子供がいたのだ。
当たり前のことが与えられず、一人でいるのが当たり前になった少年。
それが乾なのだ。
海堂はとても胸が痛くなった。
痛くて、痛くて、涙が出そうだった。
自分が、母親の腕の中で甘えていた時、乾はこの生活感のない家で一人で過ごしていたのだと思うと、どうしようもなく悲しくなった。

「どうして、もっと早くに出逢えなかったんだろう」

今は自分よりも小さな体を強く抱き締める。

「もっと前に出逢ってたなら、絶対に、あんたを一人にしなかったのに」

寂しいなんて感じさせないくらいに傍にいたのに。

「俺、すっげー悔しい」

何も出来なかった自分が。

「先輩に出逢うまでの年月が、腹立たしいっす」
「海堂」

ギュッと強く抱く腕を、優しく叩きながら乾が声をかける。

「俺さ、海堂に甘えてみたかったんだよね」
「え?」
「あの親子が羨ましいとかじゃなくてさ。俺もあんな風に、海堂に甘えることが出来たらいいなって」

甘えることを知らなかったから、どうしていいかわからなかった。
甘やかすことは出来ても、甘えることは出来なかった。
まわりの期待に沿えるように作られた優等生像は、まわりから頼られることで、完璧に近づき、甘やかしかたを覚えた。
同年代の子よりも大人びた性格も、体格も表情も、守ることを期待されて、守られることを望まれはしなかった。
気がつけば、覚えたのはすることばかりで、されることは何一つ教えられなかった。
甘えたいとか、守られたい、大切にして欲しいと望まれたことはあっても、甘えて欲しい、守りたい、大切にしたいと思われたのは初めてで、どうしていいのかわからなかった。
海堂も自分も男なのだから、したいと思うのは当たり前で。
俺が海堂にそう思っているのだから、海堂がそう思っていたって不思議ではなかったけれど。
いびつな形で完成してしまった自分は、自分が海堂を愛することが出来ても、愛されることが出来なかった。

「お前がさ、よく言うだろ?」

自分だって男だから…

「愛されるだけじゃ嫌だって……」

守られるだけなんて、まっぴらだって。

「支えあいたい、隣に並びたい…」

同じ歩幅で歩きたいのだと。
一方的なものではなく、お互いが与え合うのだと。

「俺は知らなかったんだ」

ただ求められるだけで、見返りを望んだこともなければ、あることも知らなかった。

「甘えることがわからなかったんだ」

海堂の言っていることがわからないんじゃなくて、俺はそうしているつもりだった。
ただ、方法を知らなかっただけ。

「子供がさ、親を無条件に信頼してるのか、安心しきって腕の中にいるのを見てたらさ……、まだ、これくらいの年の頃だったら、やり直せたかもって思ったんだ」

甘えてもいいんじゃないかって思ったんだ。

「スミマセン、俺……」

乾の言葉を聞いて、海堂は胸が熱くなるのを感じた。
真剣に自分の言葉を考えてくれていたこと。
どうにかしたいと悩んでくれていたこと。
それが、とても嬉しくて……
でも、同時に物凄く自分が嫌になった。
そこまで、小さくなってしまうまで、自分が乾を追い詰めていたこと。
乾の気持ちに一つも気がつかなかったこと。
少しも乾のことを理解していなかった自分が、とても悔しい。
乾を幸せにしたいのに。自分が乾を苦しめている。

「口だけで、結局、先輩に守られてる」

自分も守りたいのだと口にして、自分は乾を傷つけた。
何も知らずにいた自分が恥ずかしい。

「そんなことないよ」

恥ずかしくて顔を見ることが出来なくて、乾の小さくなった背中に額をくっつける。

「俺は海堂に救われてる」

海堂に出会って、大切なことをたくさん教えられた。
誰かを愛しいと思うこと、思われることを教えられた。
素の自分でいていいんだと教えてくれたのも海堂だった。

「だから気にするな」

背中に感じるぬくもりに強く、ゆるぐことのない声で励ます。

「それに……、折角、小さくなったことだし、今まで出来なかった分まで、甘えさせてよ?」

微かに浮いた背中に気付いて、乾が倒れこむ。
海堂の膝に背中を預けて寝ころんだ。

「海堂、お兄ちゃんだから、甘やかすの得意だろう?」

足を伸ばして、乾が体を預けやすくなるように動いてくれる海堂に、乾は笑って付け加えた。

「得意なわけじゃないっすけど……」

海堂のお腹を枕にして寝転ぶ乾の肩から腕を回し、抱き締めながら呟く。

「でも、先輩を甘やかすってのは悪くない話なんで、思う存分、甘えてください」

乾の体をぎゅうっと抱き締め、頬を擦りあわせる。
昨日、乾が見た親子のような自分たちの姿に、乾は無邪気に笑った。


そうして二人は、いつもと違う関係で貴重な一日を楽しんだ。

Fin