初めて好きになった人は
嫌なテニスをする人なのに
とても、優しくて
穏やかで、暖かくて
そして…
とても、残酷な人だった…
ランキング戦が終わった後
レギュラーから外れた乾は、いつもと変わらない様子でレギュラーのコーチ役を始めた。
越前が乾とまともに接したのは、あのランキング戦の試合の時だけで、彼への印象は嫌なテニスをする、出来れば二度と試合をしたくない人だった。
そんな印象を持ってた越前は、コーチとしての乾と接するうちに、違う感情を持ち始める。
始まりはたぶん、ココ…
あの恐怖の不味さを誇る野菜汁を飲まされた後、
「越前」
乾に呼び止められた。
「何スカ?」
この人の作ったもので、こんな思いをしたのだと思うと、自然と不機嫌そうな表情を向けてしまう。
「コレ、やるよ」
ひんやりとしたものが、越前の頬につけられる。
その気持ちよさに、思わず瞳を閉じた越前の頭上から、忍び笑いが漏れる。
「ども」
笑われたことに、また表情は憮然としたものに戻って、そっけなく言い放つ。
少しだけ上目遣いに睨みつけるような仕草で乾に視線を向けると
「悪かったな、笑って」
偶然、この身長差だから見えた、乾の眼鏡の奥の素の瞳。
その瞳が、可笑しそうに眇められてるのではなく、優しく見守るように細められていたから、越前の心の琴線に触れた。
トクン
と、弾かれた琴線から流れた音色に、越前はホワンとした感情が心に生まれたのを感じた。
その日から、越前の視線は自然と乾を追うようになっていた。
部活以外の学校にいる時間、低い確率でしか出会えない移動教室の時でも、あの他の生徒よりも頭一つ分高い長身を誰よりも先に見つける。
彼が理科室で実験を繰り返してることも、彼の口から聞いてるから、自然と理科の実験の時は、前の授業が終わるとともに教室を出て走っていった。
「今日も、越前のクラスは実験?」
理科室の手前で一度止まり、息を整えて入ってきた越前に乾が声をかける。
「っす。ソレ、今日の部活で使うんすか?」
次の授業までの短い休み時間。
授業が始まるまでの、貴重な逢瀬。
「これはまだ、未完成だから使わないな」
淡々とした口調で話して、時計に視線を向け、席をたつ。
貴重な逢瀬の中で、特に貴重なこの一瞬。
目の前に立つ乾を見上げ、彼の眼鏡に隠された瞳を盗み見る瞬間。
無表情を評されるその顔の奥に隠された、優しい色をした瞳を見るのが越前の密かな楽しみだった。
こんな風に盗み見るのではなく、堂々と見たい。
あの瞳で自分だけを見つめて欲しい。
淡い想いは、欲を生み、越前の心をジワジワと侵食していった。
ほんの少しでも、あの瞳を見れるだけでよかった。
少しでも気にかけてくれたら嬉しくて、話しかけてくれたら幸せだった。
そんな想いが、欲を生んだのはきっと…
「海堂」
きっとそう、この人がいたから……
海堂先輩
二年レギュラーの一人。
そして、乾先輩に個人的にコーチをしてもらってる人。
「海堂」
今日もまた、あの穏やかな声が彼を呼ぶ。
乾先輩はレギュラーのコーチをしてるので、レギュラーを呼び止めることは多い。
けど、中でも海堂先輩を呼ぶことが一番多い。
好きにならなければ気づかなかったこと。
気づいてしまったその事実に、心は重く圧し掛かる。
それ以上に、深く心に落ちた影は、
海堂先輩もまた、あの人を見つめてる事実。
きっと誰よりも今、あの人の近くにいる存在。
その人が、自分と同じ気持ちをあの人に抱いてる。
それが、自分の中の欲を生んだ。
あの人が、他の人のものでないならいい。
自分のものにならなくても、誰のものでないなら……
けれど、彼の存在はそれすら危ぶませるから
もし、乾先輩が海堂先輩の気持ちに気づいたら
きっと……
それだけは、絶対に阻止しなければいけない
「海堂先輩」
部活終了後、一人残って練習を続ける海堂を呼び止める。
「あっ?」
ストレッチをして、体をほぐしていた海堂の動きが止まる。
いつものようにきつい眼差しで睨みつける瞳の中には、少なからずこの生意気な後輩に呼び止められたことへの驚愕が浮かびあがっていた。
「…俺、乾先輩のこと、好きです」
海堂の視線に怯むことなく、真っ向から返す。
「絶対に、先輩には渡しませんから」
たぶん気づいてるとは思うけども、こっそりするのはフェアじゃないから、宣言する。
「…何がいいたい」
越前の真剣な表情に、本気を感じ取った海堂の声のトーンがさがる。
「知ってるっすよ。先輩も乾先輩のこと好きだって」
「……」
「俺は、どんなことしてでもあの人を手に入れますよ」
不遜な笑みを浮かべて言い切る越前。
「…奇遇だな」
向かいあう海堂が、クッと口角を上げる。
「俺も、この件に関しては、引く気はねぇ」
「へぇ…」
「乾先輩だけは、誰にも譲らねぇ」
口の端を歪めて、言い放つ海堂。
「俺、今から告白しますけど、先輩はどうします?」
海堂の言葉を聞いて、楽しそうな笑みを浮かべながら伝える。
「てめぇには、負けねぇよ」
コートに置いておいたラケットを脇に挟み歩き出す。
「どっちが選ばれても恨みっこなしってことで」
そして二人は、乾のいる部室へ向った。
「「乾先輩!!」」
部室のドアを開き、中に乾しかいないのを確認して、越前と海堂が乾を呼ぶ。
「ん?海堂に、越前?」
自主練中なはずなのに、早く戻ってきた海堂と、既に帰ったと思われていた越前に呼ばれた乾は、いるはずのない二人の存在に驚いていた。
「…話があるんっすけど」
最初に口を開いたのは越前。
「二人ともかい?」
「そうっす」
乾の質問に答えたのは海堂。
二人ともかなり緊張しているのか、ギュッと汗ばんだ手を握り締めている。
その二人の雰囲気にどことなく乾は戸惑いがちに
「何かな?」
と、いつもの無表情に淡々とした声で訊ねた。
「「……」」
乾の目の前に直立不動で立ち尽くし、大きく息を吸う。
ドクンドクンと、心臓の音が耳を打つ。
自分の音なのか、隣の先輩の音なのかもわからない大きな音は、目の前の先輩にも聞こえてるんじゃないだろうかと思うくらいに、煩く響いていた。
「「…俺、先輩が好きです」」
吸い込んだ息を、一息に吐き出すように二人して告白した。
シンとした部室の中、越前は真っ直ぐに前を、海堂は俯きがちに前の乾を見詰める。
目の前の乾の表情に変化はない。
けど、感情を押し隠す役目を果たす眼鏡で読み取れないので、実際のところはどうなんだろうかと思う。
乾は黙ったまま何も言わない。
まるで、死刑執行人に刑を宣告される前の罪人のようだな。
そう思ったのは、越前だったのか海堂だったのか…
重い沈黙が部室を埋める。
沈黙に耐えられなくなった後輩たちが声をかけようと口を開きかけたとき
「で?」
いつもと何も変わらない声が落ちてくる。
「え?」
「俺はどうしたらいいのかな?」
常日頃と変わらない態度と言葉に、二人はホッとしたような残念なような気になる。
同性に告白したことでの蔑みなどを乾が持たなかったことにホッとしながらも、こっちとしては一大決心での告白だったのにも関わらずに、どこも変わらない乾に恨みがましい想いを抱いてしまう。
「どちらかを選べってこと?」
二人して告白してきたってことは、そういうことだよね?
と、乾が再度二人に問いかける。
「そうっす」
海堂がその問いに頷いて
「で、乾先輩は、どっちを選ぶんですか?」
と、越前が問い質す。
二人の前で、乾がう〜んと首を捻る。
考え始めた乾に、二人はゴクリと唾を飲み込む。
これで決まる。
どっちを選んでも恨みっこなしっていったけど、もし、自分が選ばれなかったら……
乾が次に口を開くまでの間は、わずか数秒のことであったけど、二人にとっては何時間にも思えたほどの間だった。
「どっちも」
「え?」
「は?」
ようやく口を開いた乾から出た言葉に、二人は唖然とする。
「越前も海堂も、俺にしてみれば可愛い後輩だから、どっちかを選べって言われても無理な話しだな」
淡々と理由を述べる乾。
「それって、後輩としてしか見てないってことっすか?」
「そうだよ。まさか、お前たちが俺にそんな感情を持ってるなんて思ってなかったからね」
正直、驚いたよ。
越前の質問に、乾が答える。
「じゃあ、どっちもダメってことっすね」
「おい、そう早まるなって海堂」
ポツッと呟いた海堂に、乾が苦笑する。
「思ってなかったから、考えたこともなかったけど、知った以上は考えるよ」
可愛い後輩と思う以上のものを持つか、それともそこで終わるのか…
「だからさ、今の俺が君らにあげれる選択肢は二つだけ」
「二つ?」
「そう、二人して俺と付き合うか、終わりにするか」
乾の話す選択肢に、二人は驚いたよに乾を見つめる。
二人して乾の恋人になるか、振られるか?
そう、乾は二人に伝えたのだ。
どっちか一人を選べないから
選べないなら、二人ともを手に入れるか、捨てるかと
「そんなの…」
残酷だ…
俺も彼も本気で好きなのに…
「嫌だって言うなら、この話はこれで終わり」
それならそれで、俺はいいけど
と、何気なく呟く乾に、殴ってしまいたいような衝動に駆られる。
どうして、俺はこんな男が好きなんだろう
人の気持ちを踏みつけるような答えを、さも面白そうに…
それでも、そんな扱いをうけても、嫌いになれない自分がいる。
それでも好きだって、愛しいと思ってる自分がいた。
「どうする?」
そう問われても、二人とも返答に苦しむ。
こんなこと、どちらも予想していなかったから
「俺は、お前ら二人とも守れるだけの自信はあるよ」
だから、おいで
そう乾の声が優しく語る。
ゆったりとした動作で、乾の手が眼鏡を外す。
テーブルに眼鏡を置いて、乾の手が差し出される。
曝されることの少ない希少な素の瞳が、優しく彩られて、二人を見つめていた。
踏みつけてはいないのだと
これはこれで、この人なりの真剣な答えなのだと
その瞳は、雄弁にそれを語っていた。
「残酷っすよ、それ」
知らず自嘲の笑みが零れる。
「だろうね」
その越前の言葉に、乾も苦笑を浮かべた。
「でも、俺に出来るのはこれしかないんだよ」
両方選ぶか、両方振るか…
「大丈夫、きっと上手くいくって」
俺を信じなさい。
優しく笑いかけて、いつもよりも優しい声音で言い切る乾。
その声に押されたように、足が浮く。
動き出した足。
その足の行方は
前に出たのか、後ろにさがったのか……
差し出された手を
取るのも、振り払うのも残酷な仕打ちで
どちらの道も、苦しいものには変わりはない
幼い二人の恋心
溢れ、溢れて流れ出し
たどり着くのは、愛しい人か
忘却の河か……
選び取るのは、自分の意思
彼らの選び取る道は
茨の道での、幸福か
悲しみにくれる、平穏か…
彼らに残された選択は二つ
ともに愛されるか
ともに終わらせるか
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