その日も、何となく誘われるままに乾先輩の家に来た。
何となくというよりは、最近、心に住み着き始めた不安を消したくてだ。
付き合い始めてから…、いや、たぶんあの人を好きになってからずっと心にひっかかっていることがある。
それでも、付き合い始めてからは、隣にいれる事実が嬉しくて忘れかけていた。
それがまた、浮上を始める。
少しずつ、少しずつ、心は貪欲になって、先輩の全てが欲しくなった。
あなたがまだ、全てを俺にくれていないってわかっているから。
「先輩…」
「何?」
乾の部屋、衛星でやった全米オープンのビデオを乾の解説付きで見ていた海堂。
今は、そのビデオも終わって、隣に座る乾にしなだれかかる。
「副部長って…」
「副部長?っていうと、手塚?」
「っす」
「手塚が何?」
「……先輩と仲良いっすよね」
わかっているこれは嫉妬っていうやつだ。
好きになってすぐに気付いた、乾先輩と副部長の仲の良さ。
親友という位置にいるのは知っていた。
でも、それだけではない何かを二人には感じる。
二人でいられると、入りこめない空気に、胸が痛む。
自分の何倍も乾先輩のことを知っている副部長に、何度くだらない嫉妬をしたか。
だから、先輩の口から直に聞きたかった、ただの友達だよって。
そう言って、安心させて欲しかった。
だから、聞いただけだったのに……
「手塚ね〜、まあ、生まれる前からの腐れ縁だからな〜」
「生まれる前っすか?」
「ん。うちの親と手塚の母親が同じ病院で働いていたんだよ」
先輩の話はこうだ。
先輩の親は、結構有名な外科医だ。
そして、副部長、手塚先輩の母親は、結婚するまでは乾先輩の両親の働いている病院で看護婦をしていたらしい。
看護婦と医者という立場の違いはあれども、二人はかなり仲が良くて、子供も同じ病院で産んでいるうえに、家が近かったこともあり、ある程度の年まで、先輩は両親が忙しくて帰ってこれない日は、手塚先輩の家で過ごしていたという。
「だからさ、手塚はなんか、もう家族っていうか、兄弟みたいな感じかな」
乾先輩の中の手塚先輩の位置の深さを知らされた気がした。
「そっすか…」
安心したくて聞いたはずの答えは、より不安を煽るもので、海堂は深い溜息を吐いて、不安を拭い去るように、乾に抱きついた。
「海堂?」
強くしがみついてくる海堂を、乾は抱き寄せてサラサラとした髪を梳く。
「どうしたの突然?手塚のこと聞いてきて?」
一房掴んだ髪にそっと口吻を施しながら、訊ねる。
「別に、ちょっと気になったから…」
小さく、もごもごと口籠りながら話す海堂に、乾が不安に駆られる。
もしかして、海堂は手塚が好きなんじゃないかと。
手塚は青学では一番テニスが上手い。全国区である手塚。
テニスが大好きで強さを貪欲に求める海堂。
そんな海堂が手塚を尊敬しているのは知っていた。
いつかそれが恋愛感情に変わってしまうんじゃないかと、それが常に乾の中に住み込んでいた。
だから、突然に海堂から手塚のことを聞かれて、内心はかなり不安だったのだ。
そして、その不安は海堂の口籠る様子から、堰を切ったように溢れ出した。
「手塚が気になる?」
「は?副部長が気になるっていうか…」
乾先輩との関係が気になるんっすけど?
どこか、不機嫌になったような気がする乾を不審に思いながら、口を開く。
「手塚なんて、テニスと勉強以外はさっぱりの、社会不適合者だよ?」
「せ、先輩?何言って…?」
「俺もあんまり人のことは言えないかもしれないけど、手塚よりはよっぽど世渡り上手だしさ、家事も得意だし…そりゃ、掃除は苦手だけど、それは海堂が得意でしょ?」
「乾先輩?」
いきなり、懸命に何かを話してくる乾に海堂は慌てたように乾を呼ぶ。
「それでもやっぱり、手塚のほうがいいかな?」
「何がっすか?」
いきなり、不安そうに聞かれても、海堂には何が何だかさっぱりわからない。
「俺より手塚のほうがいい?」
「はぁ?何で副部長のほうがいいなんて思うんっすか?」
乾の言いたいことを理解した海堂は、少し機嫌を降下させる。
「だってさ、いきなり手塚のこと聞いてくるからさ」
「だからって…、俺、先輩と付き合ってるんすよね?」
「そうだね」
怒鳴ったと思った途端に、哀しそうに聞いてくる海堂に、乾も辛そうに頷く。
「じゃあ、どうして、そんな風に思うんっすか?」
乾の服をぎゅっと握り締める。
「俺、先輩のことが好きっすよ」
服から手を離して、乾の首にしがみつく。
「俺が好きなのは、あんただけっす」
「うん。ゴメンネ」
「先輩しか、いらないから」
「俺もだよ。海堂だけでいい」
海堂の背に腕を回して、強く抱き締める乾。
すれ違う心を、不安を埋めあうように、強く強く一晩中、二人は抱き合った。
それから数日がたったある日の朝。
テニス部は朝も早くから練習がある。
レギュラーの中でも早い時間にやってくる海堂は、既にコートの中にいた。
いつも来る時間より、少し遅れた、部活開始ギリギリに来た乾。
何となく、何となくだけど、違和感がある。
「乾先輩?」
練習開始の合図を聞いた後、乾の傍に近づく海堂。
「乾」
けれども、海堂が近づくよりも早く、手塚が乾の傍に寄る。
「あ、手塚?」
手塚が乾に声をかけたため、近寄りがたくなった海堂は立ち止まる。
手塚が乾の後頭部に腕を回す。
「あっ…」
驚いたように声を出す海堂。
偶然傍にいた、他の一年たちもその声に振り向いて凍りつく。
「熱、あるな」
「そう?」
凍りつく一年たちの目の前。
後頭部に腕を回した手塚のその後の行動はこう。
そのまま腕を引いて、乾の額に自分の額を当てた。
そして、続いた会話がこうな以上、手塚は額をこつんこさせて熱を測ったことになるが、この行動を普通にする彼らに一年たちは凍っていた。
「はいはい、そこストップ。何も知らない一年が固まってるよ」
二人の前に来た不二の一言。
そう、凍り付いているのは、全て一年生。
二・三年は既に見慣れているのか、またかという感じの呆れたような溜息を吐いて、練習に入っていた。
「何?乾、熱あるの?」
「ああ」
「今度は何?」
「別に熱なんかない」
「嘘をつくな。不二」
「うん、見てるから」
「頼む」
不二に乾を預けて、手塚は部長と顧問の前に向う。
「熱もないし、部活も出来る」
「はいはい。そんなすぐばれる嘘ついても楽しくないよ」
機嫌悪そうにしている乾に、それを意にも返さない不二。
部長や顧問と二言、三言話した手塚が戻ってくる。
「行くぞ」
「行ってらっしゃい」
「俺は部活するって」
「煩い」
「大人しくしなよ」
「い〜や〜だ〜」
そのまま乾の腕を捕まえて、嫌がる乾を連れてコートを出て行ってしまった。
ツキン
それを全て見ていた海堂が胸を押さえる。
さっきから痛みを訴える胸。
「かおちゃん、どうかしたにゃ?」
痛そうに眉を顰めて、胸を押さえる海堂に気付いた菊丸が心配そうに声をかける。
その声に、大石も海堂の様子に気づいて近づいてくる。
「海堂、胸が痛いのか?」
「あ…、何でもないっす」
視線だけはずっと乾と手塚が去った方を向いていた海堂だったが、その声に視線を黄金コンビに向ける。
心配かけないように、疼く胸から手を離して首を横に振る。
「何でもなくないよね、海堂」
不意に後ろから声がした。
「不二先輩」
びっくりして振り返ると、そこには不二がいて笑っている。
「顔色、悪いよ」
「そんなことないっす」
「ううん、そんなことあるから、乾と同じように保健室にいっておいで」
「あっ…あの…」
不二の言葉に、不二が考えていることがわかって、海堂はさっと頬を赤らめる。
「大丈夫だよ、あの二人、あれで普通だから。海堂が気にするような関係じゃない」
「不二先輩」
「ん?あ、そうそう、無理はしないようにね。しんどいなら、ちゃんと授業も休むこと」
「有難うございます」
ニコニコと笑いながら話してくれる不二に頭を下げて、海堂も保健室に向う。
海堂が保健室に向っている頃、その保健室では、手塚が無理やり乾をベッドに寝かしたところだった。
「今度は何だ?」
無理やり、布団を被した後、手塚は乾の隣の椅子に座る。
「……言いたくないって言ったら?」
「走らされたいか」
「遠慮します」
「なら、さっさと言え」
どうせ、海堂のことだろう?と呆れたように言われ、乾が苦笑する。
眼鏡も無理やり手塚に奪われたせいで、いつもは見えない乾の瞳が惜しげもなく曝されている。
その瞳は、不安に揺らめいているのを、手塚は見逃さなかった。
「この前さ、突然、海堂に手塚のこと聞かれたんだよね」
「俺のこと?」
「そう」
「もう少し、詳しく話せ」
そう手塚に言われ、乾はあの日の出来事を手塚に話した。
「でさ、それ以来、どうしても海堂が手塚のこと好きなんじゃって考えちゃうんだよね」
バツの悪そうに笑う親友に、手塚はこめかみが痛くなるのを感じた。
「おい、乾」
「手塚だったら、仕方ないかとも思うんだ」
「おいって言ってるだろ」
人の話を聞かずに話し続ける乾。
「海堂のこと…」
「人の話を聞け!」
止まる気配のない乾に、手塚はむぐっと口を押さえる。
「それは、俺のことを聞いてきたんじゃないだろうが」
「え?何で、手塚のことでしょ」
「違うだろ、俺とお前のことだろうが」
「それとどこが違うんだよ?」
「肝心なとこが違うだろうが」
何でそんなこともわからないんだ。
そう言いたげな手塚の声。
けれども、乾にそれは通じることはなくて、不可思議そうな顔をして手塚を見ている。
「私情を部活に持ち込まれても困る。きっちりと話しあえ」
先ほどから、カーテンの外にいる気配に気付いていた手塚が、それだけを言ってベッドから離れる。
「ちょっと、手塚。ちゃんと、言ってから出ていけよ」
そう叫ぶ乾の声も綺麗に無視する。
「海堂」
「あ、副部長…」
「あいつは愛情を信じきれないんだ。ちゃんと信じさせてやれ」
「俺…」
「お前なら出来ると信じているぞ」
「はい」
乾に聞こえないように小声での会話だったが、海堂は力強く頷いて、カーテンの向こうにいる乾の元に向う。
手塚も、その姿に安心したように口元を緩め、保健室を出ていった。
「先輩…、大丈夫っすか?」
「え、海堂?」
海堂が入ってきたことに、乾が動揺する。
その姿が、裸眼のままなせいで海堂にもわかった。
「俺、先輩が好きです。副部長が好きなんじゃないです」
そりゃ、尊敬はしているけど、そんな風に思ったことはない。
彼の人は常に自分にとっては、嫉妬の対象で不安の対象でしかなかった。
「それどころか、俺、先輩と副部長が凄く仲良いから…」
手塚に相談していた乾の声は海堂の耳にも入っていた。
だから、乾が何を誤解したかはわかっている。
それに、乾も自分と同じように不安だったのだって知って、ホッとした。
それと同時に、ちゃんと自分の不安も乾の不安も取り除かないと、と強く思った。
「ずっと、もしかしたら、乾先輩は副部長のことが好きなんじゃないかって」
ただ自分で気付いてないから、近すぎる関係っていうのは、逆にその距離の近さのために失ってしまうまで気付かないことのほうが多いから、気付いてないだけなんじゃないかってずっと不安に思っていた。
「いつか、先輩が副部長とどっか行っちゃうんじゃないかって、ずっと不安で…」
「ごめん、海堂」
ぎゅっと両手の平を握り締めて、堪えるように言葉を綴っていた海堂を乾が抱き寄せる。
「俺も不安だったんだよ。海堂が手塚のこと尊敬してるの知ってたから」
「尊敬だけっす。それ以上のものなんて、一つもない」
抱き締める乾に応えるように、海堂も強く抱き締め返す。
「先輩だけ、先輩だけでいい」
「俺も、海堂だけがいい」
思いを確かめあうように、どちらからともなく唇を重ねる。
想いを交わした二人は、寝不足が続いていたのだろう、二人抱き合ったまま小さな保健室のベッドで眠っていた。
そして、それを見守る二つの影。
「世話がやける」
「二人とも本当に不器用なんだから」
不二がそっと近づいてシーツをかけて、手塚が誰かが入ってこないようにカーテンをきっちりと閉める。
「手のかかる弟を持った気分だ」
「手塚のほうが遅いんだから、兄になるんじゃ」
「あんな兄ならいらんぞ」
「う〜ん、あんまり手塚には言われたくない台詞かもよ」
「どういう意味だ」
「さあ?それにしても、羨ましいな、僕もタカさん捕まえて昼寝でもしようかな」
「おい、河村に魔の手を伸ばすのはやめろ」
「魔の手って、失礼だね手塚」
「事実だろうが」
保健室を出るまでの間に険悪になっていった空気に、廊下を歩いていてすれ違った生徒は恐怖を感じていた。
そんな中、保健室の住人は、そんな空気にも気付かずに、幸せな空気を醸し出して幸せな夢を見ていた。
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