弓弦



ジブンジシンヲ
イルヨウニ…


部活の後、日課となっているランニングを始める。
いつもなら校庭のグラウンドを走るのだが、今日は何故だか、別の場所を走ってみたくなった。
ランキング戦が近いから、気分転換したくなっただけだろうと海堂は自分の考えにケリをつけ、走ることに集中する。
いつもとは違う場所を走っていると、少し意識を周りへと向けて、風景を楽しむ。
順調に足を進めていくと
タンッ
という音が、何度か聞こえてきた。
何だろうと海堂は思い、音のするほうに顔を向けて見る。
そこには、青学弓道部の道場があり、そこの明かりがついていることから、誰かが弓を引いてるのだと海堂は納得する。
だが、ふと海堂は思い直す。
部活には、一応、終了時間が定められているはずだと。
そして、それはどの部でも同じはずだった。
だから、弓道部ももう終わっているはず。
じゃあ、誰が引いているのだろう?
それは純粋な疑問だった。
いつもなら、こんなこと気にしないのに、何故だか、今日に限って海堂はそれがとても気になった。
そして、
何故か海堂は、ランニングを止めてまで、弓道場に行った。
道場の前にきて、海堂は立ち止まる。
自分が所属してる部でもないのに、勝手にずかずかと中に入るのは気が引けた。
それでも、気になるものはどうしようもないので、道場から続く茂みへと足を向けた。


海堂の目の端に、何かが掠めていき、海堂は視線を向ける。
タンッという小気味よい音がして、それは道場の端の的の真ん中に突き刺さっていた。
前方の見える的に命中した矢をじっと見つめた後、海堂はゆっくりと振り返る。

「…先輩…?」

そこにいたのは、さっきまで一緒に部活をしていたテニス部の先輩、乾だった。
乾は制服の上だけを脱いだ状態で、弓を放ったあとの姿勢を保ちながら矢の軌跡を見つめていた。
いつもは前屈みでいることが多い乾の背筋をピンとはった姿勢に、
初めて見る気がする。
そう思う。
真っ直ぐにピンと一本の筋が通った姿勢、その姿に海堂は見惚れる。
いつもと違う乾の姿。
自分すらも存在を許されないような空気がそこにあり、海堂は声をかけることも出来ずにいた。

「海堂」

しばし、ボーッと乾の姿を見つめていた海堂を呼ぶ声に、海堂は正気に戻る。
乾を見れば、乾が海堂のほうを向いて、手招きしていた。
それを見て、海堂は道場のほうへ戻り、中に入っていく。

「珍しいな」
「えっ?」

開口一番、乾はそんな言葉を口にする。

「海堂が、自主練中に他のことに気がそれるのって珍しいなって思ったんだが」
ほうけた顔して自分を見る海堂に、乾は口元に笑みをしいて説明する。
「そうっすね」

その説明を聞いて、海堂は納得がいったという顔をする。

「自覚はあるんだ」

その様子を見て、乾が面白そうに口を開く。
それに、海堂はムッと口を尖らせる。
自分でも珍しいとは思っている。
今日の自分はどっかがおかしいとも思う。
最初から、いつもと違う道を選んだ時点でおかしかったのだ。
まるで、何かに誘われるかのように……

「…らしくねぇってのは、わかってんだよ」

一人言のように呟く。

「まっ、たまにはそういう時があってもいいんじゃないか」

海堂の拗ねたような口調に苦笑を漏らして、乾が言う。

「先輩は…?」

じっと乾を見上げて問う。

「俺は、たまに引いてるんだよ」

弓を持ってないほうの手で髪を掻き揚げながら答える。

「ここの部長が、クラスメートなんでね」

一人になりたい時や、集中したい時なんかは弓を引く。
それが乾の癖だった。
答えが出なくて苛々している時など、弓を引いてるうちに自然と答えが浮かんでくる。
自分と対峙する時には、弓を引く。
いつからか、乾の中ではそれが当たり前になっていた。

「弓、引けるなんて知らなかったっす」

拗ねた感じで言葉にすると、クスリと乾に笑われる。

「武術はね、一通り出来るんだよ」

バンダナの上から、頭を撫でられる。
さらっと言われた台詞に、海堂が一瞬固まる。

「興味を持ったことは、やってみないと気がすまない性質でね」

苦笑いを浮かべながら話してくれる乾を、海堂はじっと見つめる。

「武道ってのは、体を鍛えるのと同時に、心も鍛えるからね」

精神面での鍛錬にはもってこいだったんだよ。
初めて聞く話に、海堂は真剣に聞き入る。
どんなつまらない話であろうとも、乾が話すものは真剣に聞くし、それが乾自身の過去の話なら、海堂にはとても大事なものだった。
少しずつ、乾を知っていく。
それが、とても嬉しいから。

「中でも弓道はね、性にあってたんだろうね」

今はもう、全てやめてるけども、弓道だけはこうして時折、自分を見つめなおすように弓を持ってしまう。
弓を強く握り締めて語る乾に、海堂は乾にとっての弓道が必要なものであると思った。

「見ててもいいですか?」

本当なら自主練に戻るべきなのだし、そっちのほうが自分のためになるのもわかっていたけど、どうしても乾の弓を引く姿を見ていたかった。
乾が一人で射てたいのだということも、わかってはいたのだけど……

「…いいよ」

困ったような顔で、少し考えた後、間を置いて乾が答える。
本当は見られたくなかったのだということが、その間・困ったような表情でわかったけれども、そのままそこに座る。
しばらく乾は海堂を見ていたが、やがて溜息を吐いて、矢を取り元の位置へ戻る。
足を左右に開き、姿勢を正す。
右手を弦に絡め、左手で弓を握り、的を見つめる。
両手を上にあげ、弓をいっぱいに引き、時を待つ。
シンと静まり返った中、海堂の目の前で乾はそのまま矢を放った。
放たれた矢は的のど真ん中へと突き刺さる。
その一連の動作を、海堂は息を殺して見つめていて。
優雅に流れる動きに、海堂は目を奪われた。
矢を放ったままの姿勢をしばらく保っていた乾が、海堂へと視線を向ける。

「海堂もしてみる?」

どこか放心状態の海堂に声をかける。

「いいんっすか?」

声をかけられハッとした海堂が聞き返すと、乾は笑って頷いた。
海堂が乾の傍に近づくと、乾は自分の手につけていたゆがけを渡す。

「とりあえず、それつけてね」

渡したゆがけを海堂が右手につけている間に、矢を用意する。

「一応、弓道には8つの動作があって…」

海堂に弓を手渡しながら、説明をする。
海堂も弓を受け取りながら、その説明を真剣に聞いている。

「…まあ、覚えられないと思うから、俺がやったのをイメージしてやるといいよ」

難しい顔でブツブツと乾の説明を反芻する海堂に、乾が声をかける。
気楽にしたらいいのだと。
その言葉を聴いた海堂は、一度、乾の顔を見た後、的に向き直り位置につく。
真っ直ぐに的を射抜くような視線で見つめる海堂。
その斜め後ろに乾は立って、それを見つめる。

「力まずに、体の力を抜く」

乾の声に合わせるように海堂の体から、力が抜ける。
先ほど乾がしていたように、足を開き弓を構える海堂に

「体は常に真っ直ぐにして……」

必要な部分だけを投げかける。

「そして…」

乾の声のトーンが変わる。

「自分自身を射るように…射つ」

乾の言葉と同時に海堂の手から、矢が放たれる。
パンという音とともに、海堂の放った矢は的の真ん中に刺さった。

「流石、命中だよ」

後ろでパンパンと手を叩きながら、乾が言う。

「海堂なら、真ん中に当たるとは思ってたけど」
「何で?」

呆然とした感じで、海堂が乾のほうに顔を向ける。
乾の言葉を不思議に思い、気の抜けた声で訊ねた。

「そういうタイプでしょ」

それに、乾はよくわからない返事を返す。
自分自身を射るように…
そう言った言葉にあわせて、真ん中に入った弓。
海堂らしいと乾は思う。
真っ直ぐに前を見詰めてる、彼らしいと……

「気持ちいいでしょ」

気が抜けたようにボーッとした風に乾を見る海堂に声をかける。

「…ウス」

その声に、海堂は小さく頷いた。
矢を放った瞬間、風が吹いたように心の中の色んな感情が霧散した。
そして、残ったのは無だった。

「癖になるとね、やめれないんだ」

考えすぎる癖のある自分にとって、破裂しそうな思考をすっきりさせるのに、これほど適したものはなかった。
思考の渦に飲み込まれていた脳が、その全てを消し去り無になる瞬間。
思考と共に昂ぶる感情が落ち着きを戻して、冷静な自分を返してくれるから。

「まぐれっすよ」

ふと海堂が呟く。
さっきの真ん中に命中したことを言ってることは、簡単にわかった。

「そんなことないよ」

それにやんわりと乾は否定する。

「あれはまぐれじゃない」

もう一度、同じようにさせても間違いなく命中する。
そう乾は確信していた。
だが、海堂はそれを信じる気はないらしく、信じてないという表情だ。

「……海堂だからいいか……」

少しの間、じっと黙って海堂を見ていた乾だったが、微かに苦笑した後、そう呟いて海堂から弓を受け取る。
ゆがけをつけなおし、弓を持つ。
矢を一本とって、位置につく。

「……っ」

瞬間、海堂が息を飲む。
目の前の乾のまわりの空気が変わった。
ピンと張り詰めた糸のような空気に、海堂の体が緊張に固まる。
さっきと同じように…、けれど、どこか違う空気を纏わりつかせて乾が弓を引く。

「あっ…」

乾の放った矢は、さっきまでとは違い、右上に逸れていた。
乾の腕がさがる。
それと同時に張り詰めた空気は霧散し、穏やかな空気が戻ってくる。
それに、海堂は安心したかのように、一度、大きく深呼吸をする。

「本気になると、どうしても逸れるんだよね」

参ったなという感じで、乾は自分の頭をかく。

「どうしてっすか?」

難なく、真ん中に命中させることが出来るのに…
海堂の疑問に、乾は一瞬、自嘲の笑みを浮かべる。
それは、ほんとにわずかな一瞬で、まばたたきでもしていたら見過ごしていただろうほどの時間。
けれども、海堂にはその笑みははっきりと見えていて……

「どうしてだろうな」

乾は誤魔化すような答えを返す。
けれど、そんな言葉も海堂には入ってこなかった。
彼は、自分が弓を引くときなんと言った…
ジブンジシンヲイルヨウニ…
あれは、向かい合ったジブン。
右上に逸れた矢。
アレガカレダッタナラ……
彼が狙ったのは……

「海堂?」

じっと一点を見つめたまま動かない海堂に、乾は訝しげな声を出す。
海堂の顔を覗き込むように乾が動こうとすると、海堂が強く抱きついてきた。
それ以上は、考えたくなかった。
考えることがとても怖かった。
だから、縋るように彼に抱きついた。

「好きです。先輩が好き」

強く強く、彼がここにいるのだと実感するように抱きついて、何度も好きだと繰り返す。
言わなければ、彼がいなくなりそうで、泣きそうな心をこらえながら言葉を紡ぐ。
海堂だからと、そう言って、見せられた彼の本気。
弓を引くとき見せた彼は、素の彼自身で、嬉しかったのと同時に、怖くて仕方がなかった。
それは、自分が彼をいつか捨てるかもしれないという恐怖。
それはきっと、彼の闇。
彼が奥深くに隠した、想いだった。

「俺も好きだよ」

何度も何度も、繰り返す海堂の告白に、乾は海堂の背中を摩りながら俺もと囁く。

「ずっといるから…」

乾の体が離れることのないようにしがみつく。

「絶対に離れないから…」

流れ出る涙をとめることも出来ずに、海堂は声を出す。
嗚咽の入った声で、一生懸命に乾に語る海堂を、乾も強く抱きしめた。


ミギウエニソレタヤ
ソレハ
シンノゾウノウエ……

Fin